ブログ屋寿司

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需要性の無さの発見

「何がしたいの?」

「したいことをしなよ」

この二つの言葉を一緒に言う人は何をしても気に入らないし、そもそもしたいことをするともっと気に入らない。

要は、「自分の理想に沿った事をしろよ」って事なんだと思う。

親父がそうだった。

したいことをしろって言ってくれるけどその経過で否定的な言葉を雨のように浴びせてくる。

いや、よく考えると否定的ではないかもしれないけどとても嫌な言葉。

現実的ではあるし間違ったことは言ってないのかもしれないけど最初に言った「したいことをしろ」って言葉が意味を為さないような言葉。

 

子供の頃、両親は離婚して親父はいなくなるんだなって思ったらずっと近くにいた。

遊びにも連れていってくれた。

けど母親は毎回嫌な顔をしていた。

でも生活費等は貰っていたようだった。

親父は母親と会うと喧嘩になるから離婚後の生活費は俺が受け取る事が多かった。

その度に

「いつまで渡せば良いのか聞いといてよ」

とか

「前渡した生活費はいつ返してくれるのかな?」

とか毎回言ってた。

それが嫌だった。

その当時子供だった俺は何が嫌かハッキリわからなかったけど、生活費を渡したくないってことがどういうことかって事をなんとなく感じてたんだろうな。

今思うと、親父の力無しで自立して行けという親父の考えがあったのかもしれないし、支えてやれよって気持ちがあったのかもしれない。

 

当時は親父が近くに居たいから生活費を渋々渡してるもんだと思ってた、けど上手く伝えられないから嫌味に感じるような言い回しで毎回行ってたのかもしれない。

あくまで想像だけど。

もしかしたら本当に生活費を出し惜しんで嫌味を毎回俺にぶつけてただけかもしれない。

実の親父が本当に嫌なやつだったら嫌だって気持ちが良い親父を作り出してるのかもしれない。

 

まあ何にしても気持ちって伝わらない時点で何にもならないからね。

 

贈り物をしたとしても相手に絶対的に相性の悪い物を渡してしまったらそれは失敗だし

妻を好きだって愛を伝えたとしても伝え方が悪ければそれはただ不快なだけだしもしかしたら伝わってないかもしれない。

 

一生懸命やったところで道筋がズレていればトンネルはいつまでたっても開通しない。

山はいつか穴は開くだろうけど間違ったところを掘ったり拡張したりし続けたら崩れるかもしれない。

 

伝わる努力をしなければならない。

相手の気持ちを受け取る努力もしなければならない。

 

分かってはいるけど、親父に対して家族に対して良い様に受け取って感謝を伝えたとしたら相手はそれで満足してまた嫌な事をされるんじゃないかって気持ちが強すぎて受け取りたいとは思えない。

 

誰に対しても勝手にやってくれてるっていう最低なスタンスを取る様になったのはこの辺が原因なんだろう。

 

家族にも失礼だし他人にも失礼だ。

 

改めて文章にしてみて家族も他人も受け入れられない自分がいることに気付いたよ。

 

受け入れなければ受け入れてもらえない。

そもそもここまで来ちゃうと受け入れてもらう事を望んじゃいけないなっておもう。

 

受け入れよう。